2015年6月25日木曜日

「大異も中異も小異も捨てて大同団結する」理由について


 言わずもがなであるが、「戦争は嫌だ!殺したくないし、殺されたくない!」というメッセージと、「やはり何度も考えたが集団的自衛権を日本国憲法の枠内で正当化する論理には無理があると思う」の間には、ものすごくたくさんの問題群や問題の次元の差異や、その他様々なものが横たわっており、その広大なゾーンにあるひとつひとつの問題とそれへの基本的態度は、さほど単純なものではない。

 つまり、若者が国家の周りを取り囲み「戦争法案をつぶせ!」と声をからしている主張の内容となれば、「その前に戦争が道徳的な悪なのか、それとも外交手段の延長上にあるのかの議論は必要ではないか?」という気持ちもある。


 この法案が通れば、教室で教えている学生たちの多くが即徴兵されることになろうとは確実には言えない。

 国際社会が、独立国家の当然の権利として(自然権として)正当防衛的な武力を当然視している中で、専守防衛の軍隊を民主的統制の優れた制度のもとで保持することを、さほどのデタラメとも思わない。平和を原理的に考える次元と、他国との関係を外交的に考える次元はおのずと異なるからだ。

しかし、今猛然とした批判にさらされている政府は、

・世界基準の制度整備が欠けている酷く恣意運用を許す特定秘密保護法を強引に通し、

・永遠に非正規社員から抜け出せない不安を促進させる労働法の改正を完全に雇用者側(経団連!人材派遣会社!)の意を汲んで押し通し、

・教育にひたすら市場原理を持ち込もうとする財界の思惑そのままのデタラメな改革を目論み、

・財政再建などお構いなく株価を上げて企業の内部留保を増やすことで政権の延命だけを目的とするインチキ経済政策を断行し、

・何よりも、言論の府である議会における政治の言葉を腐食・退行させる知的荒廃になんの憂慮も持たない。

 そうなると、「戦争は道徳的に許されません!」という主張には100%は賛同できなくても、「この法案はダメでも、改憲すればそれでいいのかという議論からは逃げられない」という気持ちがあっても、つまりその政治的メッセージの大雑把さに部分的に鼻白むことがあっても、「この政治集団だけにはフリーハンドを与えてはならない」という政治的目標が優先される。

 長々書いたことをまとめる。

 単純ナイーブ(素朴)な政治的掛け声を「政治判断において」支持するが、それは「大異も中異も小異も捨てて大同団結」するという意味であって、本当は個別の問題をきちんと議論したいのだ。集団的自衛権と集団安全保障を区別しないと、国際法や憲法学の専門家とは話ができないし、最高裁が言う「統治行為論」の持つ「政治的機能」についても考慮に入れなければならない。

 だが、この夏、市井を生きる賢明なる市民すべてと、それを全部やっている暇がない。やれる者たちとはやりたい。しかし、議会の延長期間が終わりに迫れば、もはや「政治的決断」を優先するしかない。それがどれだけ微力であろうとだ。

 だからSNSでは、今の総理大臣を退陣させるためならどんなことでも(紳士的に)やる。ラジオにも出て、(品のある一部の局なら)TVにも出て警鐘を鳴らす。

 でもそれは小生の「政治判断」である。思想的判断ではない。

 これが小生の基本のスタンスである。

 安保法制に賛成する者たち、反対する者たち、両方に向けて伝えたい。